家族とホームタウン・フェアフィールド
ホセとスーザンは1971年に結婚、1988年に長女メリッサに恵まれた。1991年に長男ジョナサン・ホセが、そして95年には次男マイケル・ジュリアンが誕生した。フェリシアーノ一家は、コネチカット州フェアフィールドの伯爵公邸だった275年以上の歴史ある建物に暮らしている。明るくにぎやかな土地で、活発なフェリシアーノ一家にはぴったりの場所だ。ホセは家にいる時は曲を書いたり、自宅の専用スタジオでレコーディングをしたりして過ごす。また、野球をしたり、あるいはラジオで野球にエキサイトしたり、そしてもちろんしっかり「父親」をしているのだ。
90年代のはじめ頃から、ホセは家族と過ごす時間を多くとるようにした。家族との時間を楽しみながら、長年の夢であった「風にのる(on the air=ラジオ番組を放送する)」ことを構想した。コネチカット州ウェスポートの地方局WMMMが、ホセの願いを叶えるのにピッタリの場となった。局長のマーク・グラハムとホセは土曜日の午前中に音楽トーク番組を立ち上げ、他愛ないおしゃべりや音楽談義、ミュージシャンとの対談、ジャズや50~60年代ロック/ポップスなど変化に富んだスタジオ生演奏などを行った。二人のショーはリスナーに受け入れられ、ホセのツアースケジュールの多忙さから毎週の番組制作が難しくなる時期まで、番組は1年以上続いた。
歴史的イベント
ホセの音楽人生において忘れがたい出来事のひとつが、1987年12月1日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を受け、他の伝説的アーティストとともに、その世界的名所に永遠に彼の名が刻まれたことである。また、生まれ故郷プエルトリコにあるウォーク・オブ・フェームにも、プエルトリコ出身の俳優ホセ・フェラーやラウル・ジュリアとともにホセの名が刻まれた。また、ロンドンの観光名所マダム・タッソー館にもホセの手型が飾られている。
ホセが、アメリカ国歌を独自のスタイルに編曲し、またそれを公の場で歌った最初のアーティストであることは、歴史的観点から見ても特筆すべき事柄であろう。それは1968年10月7日、メジャーリーグワールドシリーズの第5戦、デトロイト・タイガース対サンルイス・カージナルス戦でのことだった。また国歌のレコードがポップスチャートのトップ40に入ったのも初めてのことだ。この出来事からも、ホセがポピュラー音楽の世界に新機軸を打ち立て、新たな扉を開いたのだと改めて強調してもいいだろう。ホセの驚くべき方法による歴史的な国歌斉唱が世界を引きつけたあの時以来、今日では、国歌がごく古典的なスタイルで演奏されることはきわめて稀なのである。
前述の通り、ホセはしばしば他のアーティストとの共演やコラボレートを行ってきた。1989年には作家レイ・ブラッドベリの舞台作品『The Wonderful Ice Cream Suit』に携わった。ホセと妻のスーザンはこのプロジェクトのために12曲以上の作曲に挑んだ。偉大な世界的作家とのコラボレーションを成し遂げたことは、彼らにとって実に楽しく、素晴らしい体験であった。本作品はパサデナ・プレイハウスで大成功を収め、マスコミやこのカリフォルニアの国立劇場を訪れた観客たちからも絶賛された。
長年のキャリアを通じ、他の有名アーティストと共に多くの歴史的イベントにも携わってきた。たとえば、フォートマックヘンリーでのアメリカ建国200年祭や自由の女神コンサートにフランク・シナトラやエリザベス・テイラー、ヘレン・ヘイズ、バニー・マニロウ、そしてミハイル・バリシニコフらと共に出演し、レーガン米大統領とミッテラン仏大統領の前で演奏したこと。また、ポール・サイモンやジェームス・テイラーらと共に“バック・アット・ザ・ランチ”チャリティーコンサートにも名を連ねた。さらに、マイケル・ジャクソンが初めてムーンウォークを披露したことで知られる“モータウン25周年記念スペシャル”にも出演した。また、PBSテレビの「ケネディセンター・プレゼンツ~アメリカノス・コンサート」と題するスペシャルイベントで、ワシントンD.C.でのクリマスツリー・ライトアップ・セレモニーとホワイトハウスでのパーティーに参加したことも思い出深い出来事だ。ホセは自身の幸運を強く感じている。世界の名だたるアーティストや作家、科学者やアスリートたちと知り合えたことに。また、各国首脳や国王、なかでも二人のローマ教皇、バチカン市国クリスマスでヨハネ・パウロ2世の前で、元旦特別ミサでベネディクト16世の前で演奏できたことは、この上なく光栄なことであった。
オーストリアへの思い
ホセはラティーノ文化に根ざし、アメリカの土壌で人生を歩んできたが、ホセの音楽は世界のあちこちの人々に触れてきた。ヨーロッパ、とりわけオーストリアには強い思い入れがある。80年代の中頃、ホセはその象徴的な楽曲「El sonido de Viena(ウィーンの音)」を録音。長年の間、オーストリア航空の乗客はウィーンに到着した際に、ホセの歌うこの曲で迎えられていた。そして今では、ウィーンの公式州歌のひとつとなっているのだ。
その後ホセは、この前衛芸術的コーヒーハウスひしめく楽都に自身のホームとなる店を構えることになる。ウィーン旧市街の有名なオペラハウスから数通り隔てたあたり。カフェ「ドン・フェリシアーノ」は瞬く間にカプチーノとスイーツ、お酒とライブミュージックを楽しめる人気店となった。さらに、ホセは恐縮しきりだが、オーストリアのマクドナルド子供基金「Kinderhilfe」の名誉会長にも選出された。マクドナルド基金が子供たちとその両親に与える魔法、それを分かち合えることの素晴らしさは言いようのないもので、ホセはこの協力関係にわくわくしながら携わった。