楽譜『カチューシャの唄 ギターソロ 西川恭・編』G&M刊
◎演奏形態:ギターソロ、ギター独奏
◎頁数:A4サイズ 計4ページ
・五線譜:2ページ
・五線譜+タブ譜:2ページ
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1914年(大正3年)作詞:島村抱月・相馬御風 作曲:中山晋平
大正3年(1914年)に発表された「カチューシャの唄」は、中山晋平の作曲家としての初作品にして代表作。そして「日本の流行歌第一号」とも言われています。
ラジオもない、レコードもまだ十分に普及していない時代に1曲の歌が全国的に流行するなんて、一体どういうことなのでしょうか。そこには、現代の様々な流行=ブームの発生にも通じるような商業的仕掛けもあったようです。
まずは作曲家・中山晋平の誕生について。当時の晋平は、東京音楽学校(今の芸大)を卒業後、学校の教師をしながら文芸評論家/演出家/劇作家である島村抱月さんのお宅で書生をしていました。抱月は早稲田の教授を経て劇団「芸術座」を立ち上げ翻訳劇の上演に精を出す文芸界のエリートです。
その芸術座の公演『復活』(トルストイ原作)で劇中歌として歌われたのが「カチューシャの唄」です。抱月は晋平に「高尚すぎない、讃美歌でもない、学校の唱歌でもない、西洋の歌曲と日本の俗謡の中間を狙って」曲を作るように依頼します。
晋平は難産の末に曲を書き上げました。「カチューシャの唄」の誕生そして流行にはまずもって、今でいうプロデューサーである島村抱月の存在があったのです。
大正3年、抱月は芸術座の運営に赤字を抱え、商業的な成功を求めていました。そこで第3回公演には、その作品と人道主義思想が当時の日本のインテリ&若者に大きな影響を与えていたトルストイの作品『復活』をとりあげます。トルストイブームに乗っかったのです。
さらに「劇中歌」という新鮮な演出を試みます。その際に中山晋平に「西洋の歌曲と日本の俗謡の中間」を狙って作るように注文。こうして西洋風のメロディをもった新感覚の日本の歌「カチューシャの唄」が誕生します。
劇中歌は事前の宣伝にも活用されました。舞台の10日程前に行われた講演会では舞台に先立って「カチューシャの唄」が披露されています。また、新聞紙上にも歌詞と楽譜をドーンと掲載するなど、当時としては画期的なプロモーションがなされました。
迎えた公演初日、「カチューシャの唄」は大評判を呼びます。幕間、帝国劇場の廊下は、貼り出された歌詞を自分のノートに書き写す観客で溢れかえったと言います。そして歌の評判とあいまって、『復活』はその後の芸術座の大切な、安定した収入源として機能していったのです。
しかし、「カチューシャの唄」が“日本の流行歌の第1号”と言われるのには、他にも理由があるように思います。それは、歌としての流行を超え、社会に様々な現象を巻き起こしたことです。
ロシア風娘の髪型の流行やカチューシャバンド(髪飾り)の売上増はもとより、本来まったく無関係の分野の商品までもがカチューシャにあやかって売り出されたのです。ある自転車用タイヤメーカーでは新商品「楽譜模様のカチューシャタイヤ」が「カチューシャ可愛や、ヨクもつタイヤ」という替え歌を載せた新聞広告で売り出されました。
また、子供が歌うにはふさわしくないと、学校では歌うことが禁止されたという話もあります。こうして眺めてみると、企業とのタイアップ、無邪気に真似る子供に眉をひそめる大人など、現代のブームに通じる風景ですね。
日本の流行歌は「カチューシャの唄」からはじまった。そう言われるのもうなずける気がします。
【参考文献】
流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代
永嶺重敏・著(吉川弘文館)