《日本で最初の流行歌》と評される「カチューシャの唄」(大正3年)を作曲した中山晋平は、現在もなお愛唱される多数の流行歌・童謡・新民謡を手がけた作曲家である。
黒澤明監督映画『生きる』のワンシーンでも記憶される「ゴンドラの唄」、世代を超えて親しまれる「シャボン玉」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」などの童謡の数々、夏の風物詩「東京音頭」。中山晋平というその名前は知らなくても、その歌、そのメロディーにはなじみがある、という人が多いはずだ。
子どもから大人まで多くの人々の文字通り口にのぼり、心を騒がせ、癒したそのメロディーはそれ自体が、日本の大衆音楽史の中でキラキラと輝くモニュメントである。けれども、それらを生み出した作曲家・中山晋平その人は、天才でもなければカリスマでもない。かといって、不断の努力によって己の人生を切り拓いた反骨の人ともちがう。
どちらかといえば悲観的で、煮え切らない、迷いの人。それが筆者の抱く晋平像である。そのようなイメージは『唄の旅人 中山晋平』(和田登・著、岩波書店)を主とする評伝や資料によって筆者の内にできあがってきたものであるが、筆者が親しみを覚えるのは晋平のまさにそういう不器用で自信なさげな資質、元来特殊な才能を持ち合わせているわけではない普通の人間ぶりに対してなのである。
『シンペイ〜歌こそすべて』── 作曲家・中山晋平の生涯を描いた映画が公開されていることを知り、2025年の1月某日、さっそく劇場へと足を運んだ。ただ、その描かれ方如何によっては、自分の抱く晋平像が変わってしまうかもしれない。そういう少しの恐れを抱きつつスクリーンに向かった次第である。二時間後、果たしてその恐れは杞憂であった。そればかりか、登場人物たちとの関わりの中から浮かび上がる晋平の姿は、自分の中の晋平像をより豊かであたたかなものにしてくれた。見たかった晋平の姿、人々の間で生きる普通の人間であった晋平を再確認することができて「嬉しい」。そういう気持ちを抱かせてくれる映画だったのである。
晋平が「わしには、三人の主人がいる」(前述書、和田登・著)と言って、童謡運動の中で深く関わった野口雨情、西條八十、北原白秋の名を挙げていたことに象徴されるように、彼の作曲家人生は節目節目で出会った個性的な人物たちによって形成されている。島村抱月、野口雨情、佐藤千夜子、西條八十。彼ら、それぞれに自分自身を主役とする物語を有する人物との関わりの中で、作曲家としての確固たる自己を確立していくのである。また本作では(すなわち晋平の実人生においても、であろうが)、松井須磨子の真っ直ぐで激しい気性、母・ぞうの愛情と芯の強さ、妻・敏子のひたむきな心根もまた、重要な役どころを担いながら人間・中山晋平の姿を照らし出している。
作中では、晋平および晋平の有名楽曲をめぐる主要なエピソードがきっちりとおさえられている。これから晋平を知ることになる若い世代や専門外の人にとって、本作は整理された《中山晋平伝》としての大きな役割を担うものになるであろうと感じた。
また、劇中に登場する音楽作品群は、晋平作品(カチューシャの唄、ゴンドラの唄、船頭小唄、波浮の港、シャボン玉、あの町この町、砂山、てるてる坊主、出船の港、東京行進曲、東京音頭 etc.)はもちろん、晋平がオルガンやピアノで何気なく弾く「埴生の宿」やシューベルト「菩提樹」、瀧廉太郎「花」、さらには昭和初期の流行歌の新機軸として描かれる古賀政男作品を含め、明治期の唱歌から童謡、大衆歌謡の歴史が詰まった豪華コンピレーションである。
まったく予備知識のない人にはどこまで伝わるかわからないセリフやエピソードも含まれていたが、それは結果としてマニア心をくすぐる要素になったかもしれない。
例えば「東京行進曲」の制作時、歌詞の言葉の一部を変えてほしいという晋平に対し、西條八十が「君は北原白秋の詩は一言一句変えないのに、私の詩は変えろと言うのか!」と怒るシーンがある。詩作への厳しい態度ゆえに他者の作品への強い批判も厭わない白秋は、八十とも雨情とも折り合いが良いとは言えなかった(前述書、和田登・著)。そのような中でも晋平は「三人の主人」と真摯に付き合いながら、雨情、八十とは気のおけない関係を築いたが、白秋とは少し遠慮がちに、距離感を心得ながら関わっていたようだ。それを知った上でのこのシーンは、そうした晋平の白秋に対する距離感を浮き彫りにしているようで、おかしみをおぼえるのである。
映画としての総評は専門家に任せるとして、それでも個人的な感慨として出演者にも少しだけ触れておきたい。
晋平を演じたのは四代目・中村橋之助。晋平の飾らない実直さがよく伝わる好演で、とりわけ青年期においては、目元や頬のあたりなど、なんとなく顔つきまでもが晋平本人(むろん筆者の持つイメージではあるが)を彷彿とさせるものがあった。
また、時代に沿って主人公の足跡をたどってゆく人物伝という制約の中で、物語にごく自然な形でドラマ性を与え、観る者の心を引き込み、導いた存在として、志田未来演じる妻・敏子の役割は大きかった。一見遠慮がちで奥ゆかしいけれども、心の底に愛情に基づく強い意志を秘めている。こういう人物像の滋味を限られたシーンから浮かび上がらせるのは、役者の力の素晴らしさであろう。
俳優・歌手の真由子が演じる佐藤千夜子の飾らない素朴さがあらわれたあるワンシーンでは、観客の多くが思わず声を出して笑った。それは伝記映画に向かうときのある種のかしこまった鑑賞姿勢を忘れる瞬間であった。
岸本加世子のナレーションも作品の重心となっていた。他の主要な登場人物たちも、演出の範囲でわかりやすく誇張して描かれてはいようが、灰汁のある人物像の中にも愛らしさが感じられ、好ましく見ることができた。
触れておきたいシーンやセリフは他にも多々あるが、きりがないのでそれは別稿に譲ることにする。「カチューシャの唄」から110年の年に『シンペイ〜歌こそすべて』という新たな中山晋平伝が誕生したことを驚きと喜びをもって受けとめ、昭和100年を迎えたこの年に、それに触れることができた幸運に感謝しつつ。
(文:西川恭)
可読性を考慮して本文中の人物名、俳優名の敬称を省略しております。ご了承ください。
神山征二郎 監督作品『シンペイ〜歌こそすべて』
脚本:加藤正人、神山征二郎
公式サイト:https://shinpei-movie.com/