日本ではラテン音楽とハワイアン音楽が融合し、ムード歌謡と呼ばれる独自の歌謡ジャンルが誕生しました。大橋節夫さんの「倖せはここに」や日野てる子さんの「夏の日の想い出」などに感じられる郷愁と哀愁に満ちた和製ハワイアン/ラテンの心地よさを私たちはよく知っています。
「南国の夜」も元はボレーロと呼ばれるラテン音楽。作曲者はメキシコのアグスティン・ララ(Agustín Lara 1897 – 1970)。「ソラメンテ・ウナ・ベス Solamente Una Vez」「ノーチェ・デ・ロンダ Noche de Ronda」「グラナダ Granada」などがよく知られているメキシコの国民的な作曲家です。
ララ自身によるスペイン語歌詞の原曲は「Noche Criolla(我らクリオージャの夜)」または「Noche de Veracruz(ヴェラクルスの夜)」のタイトルで、メキシカン・ボレーロらしい三拍子のリズムで演奏されます。
日本語版の直接的な元になっているのはこれの英語版「On a Tropic Night」で、1938年のパラマウント映画『Tropic Holiday』(邦題:セニョリータ)の劇中歌として主演のドロシー・ラムーアが歌いました。映画のストーリーは、ハリウッドの脚本家が次回作のアイデアを探しにメキシコへ行き、そこでドロシー・ラムーア扮する美しいメキシコ人女性と恋に落ちる、というラブコメディです。
『アグスティン・ララ伝記 Agustin Lara: A Cultural Biography』(アンドリュー・ウッド 著 Andrew Grant Wood / Oxford University Press)によれば、パラマウント社から新作映画の音楽を依頼されたララは、メキシコシティーからロサンゼルスに移り住み、勢い込んでこの仕事にのぞみますが、あまり順調にはいきませんでした。
権利上の問題(メキシコのメディアをとりしきっていた事業家エミリオ・アスカラガ氏がララの音楽の独占権を主張していたため)でなかなか仕事をスタートできなかったうえ、制作開始後も英語歌詞への翻訳が難航するなど、ララにとっては精神的な疲弊をともなう苦い経験となってしまったようです。
それでも「南国の夜 On a Tropic Night」ほか数曲のララの作品はこの映画を彩り、『Tropic Holiday』のアカデミー作曲賞ノミネートに大きく貢献しました。