大正3年(1914年)に発表された「カチューシャの唄」は、中山晋平の作曲家としての初作品にして代表作。そして「日本の流行歌第一号」ともいわれています。
ラジオもない、レコードもまだ十分に普及していない時代に1曲の歌が全国的に流行するなんて、いったいどういうことなのでしょうか。そこには、現代のさまざまな流行=ブームの発生にも通じるような商業的しかけもあったようです。
作曲家・中山晋平の誕生
まずは作曲家・中山晋平の誕生について。当時の晋平は、東京音楽学校(今の芸大)を卒業後、文芸評論家/演出家/劇作家である島村抱月さんのお宅で書生をしていました。抱月は早稲田の教授をへて劇団「芸術座」をたちあげ、翻訳劇の上演に精をだす文芸界のエリートです。
その芸術座の公演『復活』(トルストイ原作)の劇中歌として作られたのが「カチューシャの唄」です。抱月は晋平に「高尚すぎない、讃美歌でもない、学校の唱歌でもない、西洋の歌曲と日本の俗謡の中間を狙って」曲をつくるように命じます。
晋平は難産のすえに曲を書きあげました。「カチューシャの唄」の誕生そして流行にはまずもって、いまでいうプロデューサーである島村抱月の存在があったわけです。
プロデューサー・島村抱月
大正3年、抱月は芸術座の運営に赤字をかかえており、商業的な成功を必要としていました。そこで第3回公演には、その作品と人道主義思想が当時の日本のインテリ/若者層に大きな影響をあたえていたトルストイの作品『復活』をとりあげます。トルストイブームに“乗っかる”戦略です。
のみならず、トルストイの原作がもつ社会批評的な側面を排除し、カチューシャとネフリュードフという男女の悲哀をクローズアップすることで、ひたすらに大衆の興味をかきたてる方向性を打ち立てたのです。
さらに「劇中歌」という新鮮な演出をこころみます。その際に中山晋平に「西洋の歌曲と日本の俗謡の中間」をねらってつくるように注文。こうして、西洋風のメロディをもちながら日本人の情感にも訴えうる新感覚の日本の歌「カチューシャの唄」が誕生します。
劇中歌は宣伝にもおおいに活用されました。舞台の10日ほど前におこなわれた講演会では舞台にさきだって「カチューシャの唄」が披露されています。また、新聞紙上にも歌詞と楽譜を大々的に掲載するなど、当時としては画期的なプロモーションがなされました。
むかえた公演初日、「カチューシャの唄」は大評判をよびます。幕間、帝国劇場の廊下は、はりだされた歌詞を自分のノートに書きうつす観客であふれかえったといいます。そして歌の評判とあいまって、『復活』はその後の芸術座のたいせつな、安定した収入源として機能していったのです。
日本の流行歌第1号
しかし、「カチューシャの唄」が“日本の流行歌の第1号”といわれるのには、ほかにも理由があるように思います。それは、歌としての流行をこえ、社会にさまざまな現象をまきおこしたことです。
ロシア風娘の髪型の流行やカチューシャバンド(髪かざり)の売上増はもとより、本来まったく無関係の分野の商品までもがカチューシャにあやかって売りだされたのです。ある自転車用タイヤメーカーでは新商品「楽譜模様のカチューシャタイヤ」が「カチューシャ可愛や、ヨクもつタイヤ」という替え歌をのせた新聞広告で売りだされました。
また、こどもが歌うにはふさわしくない退廃的な歌であるとされ、学校では歌うことが禁止されたという話もあります。こうしてながめてみると、企業とのタイアップ、無邪気にまねるこどもに眉をひそめる大人など、現代のブームとかわらない風景がそこにあります。
日本の流行歌は「カチューシャの唄」からはじまった。そういわれるのもうなずける気がします。
ちなみに芸術座の『復活』初演日である3月26日はこんにち「カチューシャの唄の日」とされています。それはすなわち、“日本の流行歌誕生の日”と言ってもよいかもしれません。そして2014年は、日本の流行歌誕生から100年の節目となったわけです。
【参考文献】
『流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代』永嶺重敏・著(吉川弘文館)
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